PROFILE

正圓寺縁起

旧 近江国上田邑 建暦年中(1210)佐々木左衛門五郎と申し者観音寺城内を退き良き土地と見立てて当所に移住 最勝なる田地故 上田邑と号し之を己の氏となし領する所方十八町に渡り親族繁栄す 上田氏左衛門五郎正利と時の帝より姓名を賜り代々邑を相続す  正圓寺は金田村大字上田に在り 眞宗興正寺派なり 文正元年二月僧光專創立し享保六年三月淨敎の時寺觀を改めたり依て中興と稱す 當寺に隣寺西常寺と組合保管の十字名號あり 紺紙金泥にして古へより怨敵退治の尊號と稱す




 毎年兩寺共同にて夏中法要を營む例あり 慶安三年四月の縁起によれば嘉禎元年秋親鸞聖人関東より上洛の時馬淵縄手に在る安楽坊の墓を吊ひし時信城寺に入りて休憩の時揮毫して興へられしと見ゆ 信城寺は當寺の前身にして天台宗なりといふ (蒲生郡誌 寺院誌 寺院由緒)

江州馬淵縄手御僧塚縁起

近江國蒲生郡馬淵縄手の御僧塚と曰へるは住連坊、安樂坊の墳墓なり 黑谷の先德、法然上人始めての念佛の一門を開き一心專念の義を弘め玉ふ、世普く之にこぞり人悉く此れに歸しき上人の上足の弟子に住蓮坊、安樂坊と云へる僧あり 住連蓮坊の俗姓は伊勢次郎左衛門淸原信國と曰ひ安樂坊は京都押小路外記入道師秀の子、師廣と名く京洛東山の鹿ケ谷にて別時念佛を修し六時禮賛を勤めけるに其音律哀歎悲喜いと貴かりければ道俗多く來集し隋喜賛嘆の輩其數を知らず

 

 
其頃人皇八十二代後鳥羽院建永元年十二月熊野に御幸し玉ふ 主上御寵愛の松虫鈴虫となん曰へる女官ひそかに鹿ケ谷へ參詣し女人成佛の尊き御法に會ひ光明到達せしや發心髴髪して名も妙貞松虫妙智鈴虫と改め佛弟子とは成りぬ 帝還幸の後之を聞召大に逆鱗なし玉ふ 時恰も念佛門興隆し聖道門廢退す 以此興福寺の學徒念佛門をおとしめんとて太上土御門院に奏達す 然れば遂に路次往返高聲念佛を停止し剩へ上人を流罪に處せんとす 依て上人は暫く小松たに法性寺の小御堂に閉居し玉ふ 

 


 
住蓮坊安樂坊は上人へ參り歸坊の途次五條内裏の門前にて念佛停止の高札を見忽ち聲を揚げて云く 輪王の位高けれ共七寳久しく止まらず 天上の樂み多けれ共五衰早やく現じける 南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と高稱せしかば禁制を犯せし罪にて捕られ直に近衛の西の獄に投ぜらる 建永二年住蓮坊安樂坊は獄吏に向ひ吾等步期に及んで何の言條あるべきや 唯念佛の爲には命を惜しまず 末世の爲に身代と成るべしとて專ら稱名して余言を雜へざれば遂に獄吏秀能に命じ六條河原に於て死罪に行はる
 

 
 
安樂坊と其場に臨み日禮賛を誦し西に向ふて合掌し「極樂へ參らん事の嬉しさよ身をば佛にまかせぬるかな」と一首の歌を詠じ哀れや劔の光に任せ遂に念佛の息絶え終ぬ、亦住蓮坊は佐々木吉實に命じ馬淵縄手に於て死刑に處せられる もとより覺悟の上なれば西に向ひて端座合掌し一首の歌を詠み「此程のかくし念佛現れて彌陀に引かれて西へこそ行け」念佛數百遍不思議の往生遂げ玉ふ 時に承元々年二月九日なり
其折二人の遺屍を此の地に合葬し御僧塚と曰ふ 其の後三十年を経て經て一宇の坊舎を建立し安樂寺と云ひ蓮池を掘り住蓮池と名けしが正慶年中火災に會ひ烏有になりぬ 元禄二年の秋村民擧って其の德を追崇し法會供養せし事あり 今に到るも死刑場、首洗池其側に存在す
 



猶當寺は二僧の木像古より安置し居れり凡そ四百有余年なり ​ 慶安三庚寅四月一八日 上田御坊正圓寺 記録
近江國蒲生郡金田村上田

近江八幡市総合政策文化観光課 市史編纂室

上田町正圓寺資料調査

 
正円寺縁起


 
 
【翻刻】
抑モ檀上御厨子ノ中ニ敬ヒ奉ルハ阿弥陀如来ノ尊
像ナリ、其昔聖徳太子天王寺御建立ノ砌リ当国瓦
屋寺ノ山土ヲ以テ瓦ヲ製シ玉フ頃、今村中トナリシ土
地ニ結縁アラセラレ、聖徳太子御製作在シ玉フ阿弥
陀如来ノ御木像ナリ、其濫觴ヲ尋ヌルニ往昔建
暦年中ノ頃佐々木四郎、佐々木左ヱ門五郎ト云ヒシ
者アリ、観音寺山ノ城内ヲ退キ当国能キ土地ヲ見
立テヽ移住ス、時ノ帝ヨリ性名ヲ上田氏ト給ハリ終
ニ村名トナツテ民家多キ処ニ七堂伽藍ノ一宇有テ
天台宗タリシ信城寺ト名ク、即此御木像ヲ本尊
ト崇メ奉ル、嘉禎元年ノ秋高祖聖人関東ヨリ
御帰路ノ砌リ住蓮・安楽ノ古責ニ謁シ在シ玉フ、
聖人御化導ハ太子ノ化義ヲ守ラセラレ、是御木
像ハ聖徳皇ノ御自作ナレハ御心ヲ合セントテ一夜有縁
ヲ結ハセラレ信城寺ノ住僧へ夢想ノ奇瑞顕シテ
御教化在シ玉フモ是御木像ノ御恵ニ其後乱世ノ
砌リ織田信長公地領ヲ奪ヒ取ラントテ堂塔伽藍
ノ信城寺ヲ一時ニ焼失ス、此ノ御木像モ火難ニア
ヒ奉リ勿体ナヤ炭ノ如クニ仏体ハ焼残ラセラレ、寺号
ノミ寥々トシテ住僧ナシ、今現ニ信城寺畑ト名テ
地領アリ、然ルニ上田氏相続スル佐々木ノ末縁塚根
源左ヱ門尉ト申ス者アリ、日頃菩提心深ク信城寺
破焼ノアトヲ悲ミ肆ニ田宅ヲ開ヒテ道場ヲ建
立シテ庵号ヲ草戸庵ト名ク、信城寺焼残リノ
仏像経巻等ヲ庵室ニ納メ相続ス、其後蓮如
上人金ヶ森ニ御化益ノ頃改宗■願ヒ庵号ヲ
改メ正円寺ト開号ス、夫ヨリ以来当山ノ霊宝
ト残ラセ玉フ、聖徳太子御製作ノ仏体ナレハ火
中ニ威神力ヲ顕シテ焼残ラセ給フハ末世有縁ノ
為ト存セラレ称名モロトモ謹テ拝礼ヲトゲラレマ
シウ
   只今御縁起ヲ聴聞ノ通リ聖徳太子御製作
   ノ御木像ナリ、高祖聖人関東ヨリ御上洛ノ砌リ此
   御木像ヘ御拝礼アラセラレ住蓮・安楽ノ御墓ヘ謁
   シ玉フモ御師匠法然聖人ノ御化益ヲ思召、恩徳
   ヲ報セン為、然レハ太子観音ノ垂迹元祖勢至ノ御
   化身ナレハ三尊一仏ノ尊形、在家往生女人往生拠
   拠ノ為ニ焼残ラセ玉フト存セラレ大切ニ拝礼アラレマシウ

 
【意訳】
そもそも檀上の厨子の中に安置されているのは、阿弥陀如来像である。
その昔聖徳太子が天王寺を建立した際、近江国瓦屋寺の山土で瓦をつくった。その頃、現在上田村の中にある土地に結縁あって聖徳太子がつくられた阿弥陀如来像である。その始まりを尋ねると、建暦年中(一二一一~一二一三)頃、佐々木四郎、佐々木左ヱ門五郎という者がいた。観音寺山の城内を退き、当国でよい土地を見立てて移住した。その時の帝から姓名を上田氏と賜り、それが村名となった。上田村の民家の多い場所に七堂伽藍の寺院が一宇あり、天台宗信城寺といった。ここでこの阿弥陀像を本尊として崇めた。
嘉禎元年(一二三五)の秋、高祖親鸞聖人が関東からの帰路で住蓮・安楽の古跡に詣でた。親鸞聖人の教えの導き方は聖徳太子のやり方を守っているので、この阿弥陀像は聖徳太子の自作だから心を合せんと一晩有縁を結ばれた。この時信城寺の住僧に夢想の奇瑞が顕れた。この住僧が帰依したのはこの阿弥陀像の恵みである。
その後乱世にあって、織田信長がこの土地を奪い取ろうとして信城寺の堂塔伽藍は一時に焼失した。この阿弥陀像も火難にあい、勿体ないことに炭のごとくに仏体は焼け残った。寺号だけがさみしく残り、住持もいない状態である。今、現に信城寺畑と名付けられた土地があり、上田氏がこれを相続している。
佐々木家の末縁に塚根源左衛門尉という人がいる。日頃から菩提心が深く、信城寺の焼け跡を悲しみ、田宅地を開いて道場を建立した。庵号を草戸庵と名づけ、信城寺の焼け残った仏像・経巻等を草戸庵に納め相続した。その後、蓮如上人が金森(守山市)に教化に来られた時に改宗を願い、庵号改めて正円寺とした。それ以来阿弥陀像は当山の霊宝として伝えられた。聖徳太子自作の仏像なので、火中にあっても威神力を顕して焼け残ったのは、後世にいたっても有縁のためだと思って称名とともに謹んで拝礼をいたしましょう。

 

   只今御縁起を聴聞された通り、聖徳太子自作の阿弥陀の木像です。高祖親鸞聖人が関東より御上洛した際、この阿弥陀像へ御拝礼され、住蓮坊・安楽坊のお墓へ詣でた。これも親鸞聖人の御教化の利益と思い、恩徳に報いよう。聖徳太子は観音菩薩の化身、親鸞聖人の師である法然上人は勢至菩薩の化身なので、この阿弥陀像とともに阿弥陀三尊一仏の形式である。在家者・女人の往生など様々な衆生のために焼け残ったものと思って大切に拝礼いたしましょう。


 


【翻刻】
当檀御厨子ノ中ニ安置シ奉ル尊像ハ夢想ノ阿
弥陀如来、高祖聖人自ラ御彫刻在シタル御木像
ナリ、抑モ其濫觴ヲ伺ヒ奉レハ往昔上田ノ里ニ天台宗
タリシ七堂伽藍ノ一宇有テ信城寺ト名ク、然ルニ
嘉禎元年ノ秋聖人関東ヨリ御上洛ノ砌リ古人
住蓮・安楽ハ同門弟念仏停止ノ折柄江州馬
渕繩手ニテ死罪ニ行レ玉フ、同門ノ好ミヲ以テ古
責ニ謁シ在ス頃、カタハラニ有ル堂塔伽藍ノ信城寺
ニ御休息アラセラレ、住僧其前日ノ夢想ニ本地阿
弥陀如来ノ仏体ヲ久シク拝シ奉ル夢想アリ、今又
黒衣ノ旅僧来ラセ玉フコト何ソ唯人ニ在シマサン竊
鸞聖人ナランコトヲ知リ叮嚀ニ敬応々奉リ庶幾ハ
今宵御止宿ト願ヒ奉ル、御承引アラセラレ其夜ハ信城
寺ニ入ラセ玉フ、住僧喜ヒノ涙ニ咽ヒ漸ク茶飯ヲ差上ケ
奉ル其志ノ厚キヲカンガミ玉ヒ夜モスカラ弥陀ノ本願ノ
不思義ヲ御教化アラセラレ暫ク寝所ニ入ラセ玉ヘハ夢
想ニ正身ノ阿弥陀如来ノ尊像アラハレ玉フ、翌日御発
足ノ時何御手沢ヲト願ヒ奉レハ、其厚意ヲシロシ
メシ昨夜夢想ノ■上シニ本地阿弥陀如来ヲ拝シ奉ル
トノ玉フ、住僧身ノ毛イヨタツテ聖人ノ入ラセ玉フ前晩夢想
ニ阿弥陀如来ノ尊形ヲ拝シ奉コト奇瑞不思義
ナリト喜ヒノ涙トトモニ御物語リ申シケル、然レハ汝カ夢想ト
云ヒ親鸞モ昨夜ノ夢想ト云ヒ符合セルコト此ノ処ニアツ
テ末代衆生ノ化益ナリトテ是御木像ヲ御彫刻アラセ
ラレ信城寺ノ住僧ヘ御形見トテ御授与アラセラレタ
ル御木像ナリ、其後織田信長公合戦ノ砌リ彼ノ
信城寺ヲ焼失ス、其昔シ佐々木佐ヱ門五郎ノ末弟
塚根源左ヱ門尉道場ヲ建立シ草戸庵ト名ク、信城寺
ノ本尊焼残ノ仏体幷ニ此御木像威神力ヲ顕
シテ火難ヲノカレ仏体少モ損シ玉ハス、寄特不思義
ノ尊像ナリト崇メ伝来セリ、然ルニ蓮如上人金ヶ
森ニ御化導ノ砌リ草戸庵相続ノ住僧改宗ヲ
願ヒ終ニ寂如上人ノ御代ニ庵号ヲ改メ正円寺ト
改号ス、其ノチ享保六丑ノ三月興正寺御門跡御
兼帯所ト相定夫より当山ノ霊宝トナラセ玉フ、聖人
御自作夢想ノ阿弥陀如来ノ尊像ナレハ不思義
宿縁ニ由テ拝礼シ奉ルト存セラレ称名モロトモ大切ニ
御礼ヲトゲラレマシウ
   只今御縁起ヲ聴聞ノ通リ天台宗ノ住僧夢想ヲ
   拝シ玉ヒ、聖人夢想ニ拝シ玉フコト古ヘ信城寺住僧
   ヘノ御形見ナレト末世有縁ノ今日ハ、悪人女人ヲ助ケ玉フ、
   大慈大悲ノ尊形ナレハ偏ニ聖人御彫刻ノ御苦労
   ト存セラレ大切ニ拝礼イタサレマシウ

 
 
【意訳】
当檀上の御厨子の中に安置される尊像は、夢想の阿弥陀如来像である。親鸞聖人自ら彫刻された木像である。そもそもその起源を尋ねれば、往昔上田の里に天台宗の七堂伽藍の寺院が一宇あり、信城寺と呼んでいた。
嘉禎元年(一二三五)の秋、親鸞聖人が関東より上洛の際のこと。以前同門弟だった住蓮・安楽が念仏停止の命じられた折に、江州馬渕繩手にて死罪に行ぜられたので、同門の好みでその古跡に詣でた。その際傍らにあった堂塔伽藍の信城寺にて休息された。同寺の住僧はその前日の夢想に、本地阿弥陀如来仏を長いこと拝礼する夢を見た。今また黒衣の旅僧が来られ、いったい何者かとこそっと伺ってみると、親鸞聖人であることを知り、丁寧に応対した。住持は、願わくば今夜ここに止宿してくださいと願い出たところ、御承引いただき、聖人はその夜信城寺に入られた。住僧は喜びの涙にむせび、茶飯を差し上げた。その志の厚いことを思い聖人は夜ふけまで弥陀の本願の不思議についてお話し下された。
その後聖人が寝所に入ると、夢想に正身の阿弥陀如来が顕れた。翌日聖人が出立される時、何か記念の品を下さいと願ったところ、その厚意に感じ、昨夜夢想で本地阿弥陀如来を拝礼する夢を見た、と語った。住僧は身の毛が立って、自分も聖人が止宿される前の晩、夢想に阿弥陀如来を拝礼する奇瑞があり、不思議なことだと喜びの涙とともに語りだした。それでは汝(住僧)の夢想といい、親鸞聖人の昨夜の夢想といい、符合するのはこの場所にて末代まで衆生のために教化を続けよとの意味であろうと、親鸞聖人がこの阿弥陀の木像を彫刻し、信城寺の住僧へ形見として授与されたものである。
その後織田信長が合戦の折に、信城寺は焼失した。その昔、佐々木左衛門五郎の末弟にあたる塚根源左ヱ門尉が道場を建立し、草戸庵と名づけた。信城寺の焼け残った本尊像および、この像の威神力を顕現して火難を遁れ少しも損じてないことは奇特で不思議な尊像だとして崇めて伝来してきた。
やがて蓮如上人が金森に来られた際、当時の草戸庵の住僧が改宗を願い出て、寂如上人(西本願寺十四世宗主)の代に庵号を改め正円寺とした。その後享保六年(一七二一)三月、興正寺御門跡の兼帯となり、以降本阿弥陀像は当山の霊宝となった。親鸞聖人自作の夢想の阿弥陀如来なので、不思議な宿縁によって拝されるものと思い、称名とともに大切にお礼をしましょう。
   只今御縁起を聴聞した通り、天台宗の住僧が夢想を拝され、親鸞聖人も夢想にて拝された古き時代に、信城寺住僧への形見として下された阿弥陀像だが、末世有縁の今日では、悪人・女人を助なさる大慈大悲の尊像なので、ひとえに親鸞聖人が彫刻した御苦労を思い大切に拝礼いたしましょう。


 
【解説】
正円寺に伝来する同寺および焼損仏の縁起。①と②の二種類あり、ともに大まかには内容が一致するが、それぞれにしかない記述もいくつかみられる。
①②とも内容がほぼ一致するのは次の通り。
古くは上田の地に天台宗信城寺なる寺院が所在し、ここに本尊阿弥陀如来像が安置される。親鸞聖人が関東よりの上洛途上、住蓮坊・安楽坊の墓所に詣でた際に阿弥陀如来が夢想に顕現したという。やがて織田信長の焼き討ちにより信城寺は焼失、本尊阿弥陀像は焼損する。これが今の焼損仏である。
その後、佐々木一族の塚根源左衛門尉が草戸庵を開き、信城寺の焼損仏などをこの庵に納めた。さらに蓮如が金森(守山市)に来た際、当時の草戸庵住持が帰依して改宗し、正円寺と改めた。ただし、ここでは信長と蓮如の時代が錯綜しているようである。
次に①と②で内容が異なるもので、重要と思われる記述をみてみよう。
①では信城寺本尊阿弥陀像を聖徳太子の自作とし、②では親鸞聖人の自作としている。①は聖徳太子が天王寺建立の際、近江国瓦屋寺の山土で瓦をつくり、その折に縁あって上田の地で太子自ら彫刻した阿弥陀像としている。一方の②は親鸞聖人が関東から上洛する際、安楽坊・住蓮坊の墓所に参り、そばにあった信城寺に止宿した際、夢想により聖人自ら彫刻した阿弥陀像としている。
さらに①では建暦年中(一二一一~一二一三)の帝(順徳天皇)から、信城寺の住持が「上田氏」の姓を賜り、それが上田村の由来となったという点も注目される。これは②にはない記事であるが、上田氏(現在は植田氏)および上田村の由来を示しており、貴重な記事であろう。
②にしかない記述で重要なのは、草戸庵の改宗にかかわる部分である。①が蓮如(一四一五~一四九九)の時代に改宗して草戸庵を正円寺と改めたとあるが、②では正円寺への改名はその後の寂如上人(一六五一~一七二五)の時代だという。寂如は西本願寺第十四世宗主で、在位期間は寛文二年~享保十年(一六六二~一七二五)である。つまり現在に直接つながる正円寺の成立時期が、江戸時代前期ごろとなる。さらに享保六年(一七二一)三月に興正寺門跡の兼務となったとあり、現在正円寺ではこの年をもって中興としている。
本縁起の性格としては、末尾に「只今御縁起を聴聞した通り~」とあるように、他者に読んで聞かせるもので、そのための原稿ということになる。文体などから明治期のものであろう。こうした縁起は通常、勧進活動に用いられるものである。これは寺社などを再建するための資金を集めるため、担当者数人が手分けして各地を回り、人の多いところで出開帳し縁起を読み上げ、寺院の由緒や霊験に感じた聴衆らが些少の寄付金を出してくれるというもの。かつては勧進聖とか勧進僧といった専門の宗教者が担当して自由に全国を回っていたが、江戸後期にこれは禁止され(許可制になり、場所も限られた)、明治期以降は門徒ら一般人があたっていた。おそらく明治期に正円寺が改修工事などの費用を捻出しようとしていたと思われる。

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